「年の瀬や水の流れと人の身は明日待たるるその宝船」は赤穂浪士の大高源吾と宝井其角が両国橋で交わしたとされる句。
「年の瀬や水の流れと人の身は明日待たるるその宝船」の意味は?
「年の瀬や水の流れと人の身は明日待たるるその宝船」大高源吾(忠臣蔵)
「年の瀬や水の流れと人の身は明日待たるるその宝船」という句は、宝井其角と大高源吾という二人の俳人が詠んだ連句です。
- 年の瀬や水の流れと人の身は
これは、宝井其角が詠んだ部分です。
年の瀬が近づき、水の流れのように時間も過ぎゆく中で、人の運命も変わりやすいものだという感慨が込められています。 特に、落ちぶれた身には年の瀬の寂しさがより強く感じられることを、水の流れの止まらなさに重ねています。
其角は、この句を、すす竹売りに身をやつした源吾の姿を見て詠みました。 源吾の落ちぶれた様子を、年の瀬の寂しさと重ねて見ていたのでしょう。
- 明日待たるるその宝船
これは、大高源吾が詠んだ部分です。
源吾は、この句で、明日には討ち入りが終わり、長年の願いが叶う喜びを「宝船」にたとえています。 吉良を討て本懐を遂げることができれば、たとえ討ち入りが失敗に終わり切腹することになっても、主君のもとへ参ることができる、いずれにせよ「宝船」を得たようなものだという決意が込められています。
其角は、源吾が討ち入りを暗示していることに気づかず、源吾の返句を単に落ちぶれた身の上を嘆くものだと解釈しました。 しかし、吉良邸の隣に住む土屋主税は、この句の真意を理解し、源吾の討ち入り計画を知ることになります。
この連句は、歌舞伎「松浦の太鼓」など、多くの作品で取り上げられています。
しかし、史実として、このやり取りがあったことを証明する資料は存在しません。 後世に作られたフィクションであると考える研究者が多いようです。
特に、源吾の返句が、討ち入りを暗示していることは、後世の脚色と考えられます。
「草も木もこうなるものか冬枯れて」「明日待たるる銀のさかづき」という、別のやり取りが本当だという説もあります。 これは、冬枯れの寂しい景色の中にあっても、明日には希望が訪れるという期待を表していると考えられます。
いずれの句が本当であったとしても、大高源吾の決意と覚悟、そして宝井其角との友情を感じさせるエピソードとして、語り継がれていることは確かです。
大高源吾(忠臣蔵)とは?
大高源吾忠雄は、赤穂浪士四十七士の一人で、文武両道に秀でた人物として知られています。 本姓は安倍氏で、平安時代から続く名門大高家の出身です。 家紋は丸に三盛亀甲花菱で、通称は源五または源吾です。 子葉という雅号を持ち、俳諧にも長けていました。
大高家は代々、安倍氏や安東氏の嫡流である秋田氏に仕えていました。 源吾の父、忠晴は秋田家の庶子でしたが、浅野長直に仕え、200石という厚遇を受けていました。 しかし、忠晴が亡くなった後、源吾は20石5人扶持しか相続を認められませんでした。
源吾は赤穂藩で金奉行、膳番元方、腰物方などの役職を務めました。 俳諧の才能にも恵まれ、水間沾徳に師事し、萱野重実や神崎則休と並んで「浅野家三羽烏」と称されました。 俳諧集『二ツの竹』を編著し、参勤交代の際に紀行文『丁丑紀行』を著しています。
主君・浅野長矩が切腹し、赤穂藩が改易となった後、源吾は大石良雄に信頼され、重要な役割を担いました。 大石の盟約に加わり、赤穂城開城後は大津や京都に住み、しばしば大石の使者として活動しました。 江戸急進派の鎮撫や「神文返し」など、重要な場面で活躍しています。
討ち入り前には、豪商・綿屋善右衛門から資金を借り、遺作として『二ツの竹』を出版しました。 江戸では脇屋新兵衛と名乗り、吉良義央に関する情報収集に努めました。 討ち入り当日、源吾は表門隊に属し、大太刀を振るって奮戦しました。 泉岳寺では「山をさく刀もおれて松の雪」の句を残しています。
その後、他の浪士とともに松平定直の中屋敷に預けられました。 元禄16年2月4日、切腹を命じられ、「梅で呑む茶屋もあるべし死出の山」の辞世の句を残し、32歳でこの世を去りました。 戒名は刃無一劔信士で、主君と同じ泉岳寺に葬られました。
源吾は独身で、妻子はいませんでした。 弟の小野寺秀富と従兄弟の岡野包秀も独身でした。 幕末の志士、大高又次郎が子孫とされていますが、これは創作のようです。
源吾は宝井其角と交流があったとされ、討ち入りの前夜に両国橋で再会し、句を詠み合ったという逸話が有名です。 しかし、これは史実ではなく、後世の創作であると考えられています。 中央義士会もこのエピソードを事実ではないと認めています。
また、源吾が茶人・山田宗?に入門し、吉良邸の茶会の日程を突き止めたという話や、茶器「桂籠」を盗んだという逸話も、事実ではありません。
創作では、源吾の妹としてお園が登場しますが、史実では源吾に妹はいませんでした。 また、源吾が介錯人である宮原久太夫に恨みを抱いていたという設定も創作です。 伊勢浪人・水沼とのエピソードや、中村正辰との交流も創作です。
大高源吾は、忠義に厚いだけでなく、文芸にも秀でた人物として、後世の人々に多くの創作を生み出す源となりました。
室井其角について
室井其角は、江戸時代前期に活躍した著名な俳諧師です。本名は竹下侃憲で、別号には「螺舎」「狂雷堂」「晋子」「宝普斎」などがあります。
蕉門十哲の一人
其角は延宝年間初期(1673年頃)に松尾芭蕉に入門しました。 酒好きで知られ、その作風は平明で口語調の洒落が効いた、華やかなものでした。 芭蕉の高弟の一人として、蕉門十哲に数えられています。
赤穂事件との関わり
其角は、赤穂浪士の一人である大高源吾と俳諧を通じて交流があったとされています。
歌舞伎「松浦の太鼓」など多くの作品で描かれ、忠臣蔵の有名な場面の一つとなっていますが、史実としてこのやり取りがあったことを証明する資料は存在せず、後世に作られたフィクションであると考える研究者が多いようです。 中央義士会もこのエピソードを事実ではないと認めています。
他の逸話と創作
他にも、其角が討ち入り当夜に句会で「我が雪と思へば軽し笠の上」と詠んだという話や、 源吾が「日の恩やたちまち砕く厚氷」と詠んだのに対し、其角が「月雪の中や命の捨てどころ」と返したという創作も存在します。 しかし、これらの逸話も史実の裏付けはありません。
真相は?
其角が源吾と親交があったことは事実だとしても、両国橋でのやり取りや討ち入り当夜の句については、創作の可能性が高いと言えるでしょう。 これらの話は、赤穂事件を題材とした芝居や講談などを通じて広く知られるようになり、人々に感動を与えてきました。 史実とは異なる部分もあるかもしれませんが、其角と源吾の友情、そして赤穂浪士たちの忠義の精神を象徴するエピソードとして、語り継がれていることは確かです。