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蛇骨|円光寺の角の生えた大蛇のミイラとは?ミステリープラネット

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「蛇骨」と呼ばれる飛騨・円光寺の角の生えた大蛇のミイラが「ミステリープラネット」で紹介されました。

「ミステリープラネット」は地球上に存在するさまざまなミステリーを調査し、その真相に迫るバラエティ番組

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蛇骨|円光寺の角の生えた大蛇のミイラとは?ミステリープラネット

「蛇骨」と呼ばれる飛騨・円光寺の角の生えた大蛇のミイラについて、下記のような伝承があります。

引用:https://www.hidalabo.com/detail/438/news/news-19372.html

800年くらい前、越後の郷士の妾さんが、池に沈み殺されたそうです。

妾は大蛇となり、恨みからか、人に悪さして 恐れられることに。

のちに、親鸞聖人が越後へ流罪を命じられた折、仏教の慈悲を弘めたそうです。

聴聞する人の中に、怪しく美しい女性がいたそうで、女人往生や悪人正機の話を聞き、

『うれしやありがたや、こんなに醜くく迷い果てた大蛇が如来様のお目当てで

あったとは』 と喜び帰った先は、妾さんが殺された、大蛇の出る池でして、

数年後、大蛇の遺骨が池に浮かび上がったというお話。


どうやら普段は一般には公開されていないようです。

円光寺とは?角の生えた大蛇のミイラ「蛇骨」の寺

円光寺は岐阜県飛騨市古川町殿町にある浄土真宗本願寺派の寺院。

  • 創建: 元々は永正11年(1514年)に、江馬氏家臣の岩佐氏の正祐が吉城郡宇津江村(現在の高山市国府町宇津江)に開いた念仏道場「垣株堂」が始まりとされています。
  • 移転: 戦国時代に金森氏が飛騨国に移ってきた際に古川町に移り、その後上町、向町を経て、元和7年(1621年)に現在の場所に移りました。 当初は水害に悩まされていたことが、移転の理由の一つとされています。
  • 寺号の変遷: 慶長8年(1603年)に寺号を許可され「正覚寺」と名乗り、元禄4年(1691年)に現在の「円光寺」に改称されました。
  • 本堂: 寛文7年(1667年)に建立されたとされていますが、享保9年(1724年)という説もあります。 本堂の妻面には亀の彫刻があり、「水呼びの亀」と呼ばれています。明治37年(1904年)の古川大火の際、この亀が火災から本堂を守ったという言い伝えがあります。
  • 山門: 天正年間(1573~1593年)に築城された増島城の城門を移築したものと伝えられています。元和5年(1619年)の一国一城令により増島城が破却された際に、円光寺に移築されたと言われています。昭和33年(1958年)に飛騨市指定史跡に指定されました。 山門までの距離が道路から少し離れているのは、昔は山門近くに道があったためだとされています。 また、山門には飛騨の匠の技である「継ぎ手」という、釘を使わずに木を継ぐ技法が使われています。
  • 上町廃寺の五重塔の塔心礎: 境内には、上町廃寺の五重塔の塔心礎と推定されるものがあります。飛騨国内で見つかっている塔心礎4基のうち、柱穴が最大のものとされており、飛騨市指定文化財に指定されています。
  • 三寺まいり: 円光寺は、300年以上続く伝統行事「三寺まいり」の一つです。毎年1月15日に、本光寺、真宗寺、円光寺の三つの寺院を参拝する行事です。浄土真宗の開祖である親鸞聖人の命日(西暦換算で1月16日)の前日に、その遺徳を偲ぶ意味で行われています。 元々は、大正から明治にかけて長野県の製紙工場へ働きに出ていた「糸引き工女」と呼ばれる女性たちが、地元に帰省した際に着飾って瀬戸川の川辺を巡拝したのが始まりとされています。男女の出会いの場ともなり、縁結びの行事としても知られています。

円光寺は、歴史的な建造物や文化財、伝統行事など、多くの魅力を持つ寺院です。飛騨古川を象徴する風景としても知られており、多くの観光客が訪れます。

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