ローマ教皇の死去に伴い、新しい教皇を選出するために行われるコンクラーベという儀式について解説しています。
コンクラーベの語源は?歴史、規則、手順、そして過去の事例は?
コンクラーベと根比べの語源は?やり方・煙は?
■コンクラーベって「根比べ」!?その語源から驚きの食事事情まで徹底解剖!
皆さん、こんにちは!最近、ふと気になったんですよね。「コンクラーベ」って言葉。ニュースでローマ教皇が亡くなったとか、退位したとかいう時に必ず出てくるじゃないですか。で、日本人なら誰しもが一度は思うであろう疑問。「コンクラーベ」って、もしかして日本語の「根比べ」と何か関係があるの?
今日は、その素朴な疑問を入り口に、コンクラーベの奥深~い世界を徹底的に掘り下げていきたいと思います!語源はもちろん、驚きの選出方法、過去のドラマ、そして皆さんがきっと気になるであろう食事やトイレ事情まで!
さあ、鍵のかかった秘密の部屋で繰り広げられる、熱き男たちの魂のぶつかり合いを覗いてみましょう!
コンクラーベ|え、「鍵部屋」が語源!?「根比べ」との意外な関係
コンクラーベと聞いて、僕を含め多くの日本人が最初に連想するのが「根比べ」という言葉かもしれません。何か、じりじりと時間をかけて決着をつけるイメージ、ありますよね?実際、新教皇が決まるまで何日もかかることもあるコンクラーベの様子を見ていると、まさにそんな「根比べ」を連想してしまうのも無理はありません。
でも、残念ながら(?)直接的な語源としての関係はないんです。「コンクラーベ」という言葉は、ラテン語の 「conclave」 に由来しています。これは 「鍵がかけられる部屋」 という意味なんです。さらに深く掘り下げると、「con-」は「共に」、「clavis」は「鍵」を意味する言葉が組み合わさってできた言葉なんですね。つまり、文字通り「鍵と共に」という意味合いを持っているわけです。
じゃあ、なぜ「鍵がかけられる部屋」が教皇選挙を意味するようになったのか?それには、13世紀に遡る、ちょっとドラマチックな歴史があるんです。
時は1268年。教皇クレメンス4世が亡くなり、後継者を選ぶために枢機卿たちがイタリアのヴィテルボという街に集まりました。ところが、当時のヨーロッパは教皇を支持する「ゲルフ派」と皇帝を支持する「ギベリン派」の対立が激しく、18人の枢機卿たちはそれぞれの政治的立場に固執して、なかなか新しい教皇を決めることができませんでした。
なんと、1年半 経っても決まらず、まさに「根比べ」のような状態に陥ってしまったんです。これに業を煮やしたのが、ヴィテルボの市民たちでした。街の経済も混乱し、市民生活にも大きな影響が出ていたのでしょう。ついに彼らは、枢機卿たちが集う宮殿に鍵をかけて閉じ込めてしまった んです!。これが、「コンクラーベ」という言葉の語源になったと言われています。
さらに驚くことに、市民たちは閉じ込めただけでなく、枢機卿たちへの食料の供給を制限 し、それでも決まらないと、屋根まで取り払って 早期決着を迫ったというから驚きです!。まさに、なりふり構わぬ「根比べ」ですよね!
最終的に、この強硬な手段が功を奏したのか、なんと 2年9ヶ月 という途方もない時間を経て、ようやく新しい教皇グレゴリオ10世が選出されたのです。この前代未聞の出来事を教訓に、教皇選挙は外部から隔離された状態で行われるようになり、現在のコンクラーベの原型が作られたというわけです。
初代教会における教皇の選出方法については、はっきりとした記録は残っていませんが、司教や司祭が中心となり、信徒の代表者も参加して選んでいたと言われています。しかし、313年のミラノの勅令以降、キリスト教が公認されるようになると、ローマ皇帝やゲルマンの諸王が教皇選挙に介入するようになり、教会にとって大きな弊害をもたらしました。皇帝が教皇選挙を承認する必要があるという規則が定められたり、ある皇帝は規則を乱用して教皇を任命したり退位させたりするようになったのです。
こうした外部からの介入を防ぎ、教会の自主性を守るために、教皇選挙の方式は時代とともに変化してきました。769年には教皇ステファノ3世が選挙権を持つ者を聖職者のみとする教皇選挙法を定め、国の有力者や一般市民の参加は事後の「歓呼」による承認のみとなりました。しかし、904年から1046年の間には、教皇を巡って激しい争いが続き、44人もの教皇や対立教皇が生まれ、9人が暗殺され、9人が追放されるという混乱した時代もありました。
1059年には、教皇ニコラオ2世が皇帝や貴族の介入を退けるため、6人の司教だけに教皇を選挙する権限を与えるという規則を制定し、この6人の司教が後に「枢機卿」と呼ばれるようになります。1179年には、アレキサンドロ3世が教皇選挙の方式を法文化し、選挙権はすべての枢機卿に与えられることになり、枢機卿会の3分の2以上の得票があれば教皇に選ばれるという、多数決制が導入されました。そして、1268年のクレメンス4世の死後、ヴィテルボで行われた d?ugotrwa?y な教皇選挙をきっかけに、「コンクラーベ」という言葉が教皇選挙会を指す言葉として定着していったのです。
直接的な語源ではないにしろ、長期間にわたる閉鎖された空間での意思決定という点で、「根比べ」という日本語のニュアンスは、コンクラーベの本質をある意味で捉えていると言えるかもしれませんね。人間の意地と知恵、そして信仰が複雑に絡み合う、それがコンクラーベなのかもしれません。
コンクラーベのやり方|白煙と黒煙のドラマ!知られざる舞台裏
さて、語源となった驚きの歴史を知ったところで、次は現代のコンクラーベがどのように行われるのか、その具体的なプロセスを見ていきましょう。特に、結果を知らせる煙の色は、世界中の注目が集まる瞬間ですよね!
教皇が亡くなるか、あるいは退位すると、カトリック教会の最高意思決定機関である枢機卿団が招集されます。ただし、選挙権を持つのは80歳未満の枢機卿で、その数も120名以下と定められています。世界中から集まった枢機卿たちは、バチカン市国にあるシスティーナ礼拝堂に集結します。ミケランジェロの壮大なフレスコ画「最後の審判」が描かれたこの神聖な空間が、新教皇を選ぶ舞台となるわけです。
コンクラーベが始まると、枢機卿たちは外部との一切の連絡を禁じられます。手紙、メール、電話はもちろん、新聞やテレビなどのメディアに触れることもできません。現代では、宿泊施設であるサン・マルタ館の電話やインターネット回線が遮断され、携帯電話の使用を防ぐためのジャミングまで行われるという徹底ぶりです。まさに「鍵のかかった部屋」状態が現代でも再現されているんですね。この厳格な隔離は、外部からの圧力や影響を排除し、枢機卿たちが自由な意思で神の導きに従って投票を行うための重要な措置です。
投票は秘密投票で行われ、新しい教皇となるためには、総投票数の3分の2以上の得票が必要です。投票は所定の用紙に無記名で行われ、投票者自らが手書きで記入し容器に入れることになっています。教皇選挙では自分の名前を書くことは認められていません。投票は、初日の午後に行われる1回から始まり、この最初の投票で決まらなければ、続く2日間は午前と午後にそれぞれ2回ずつ、合計4回行われます。もし3日間の投票で新しい教皇が決まらない場合は、最長で1日の祈りなどの期間が設けられ、その後再び投票が始められます。この процедура は、7回の投票ごとに最大1日の祈りの期間を挟みながら繰り返され、それでも決まらない場合は、前回の投票における上位2人の得票者について決選投票が行われます。ただし、この2人は決選投票には加わりません。
そして、世界中が固唾をのんで見守るのが、システィーナ礼拝堂の煙突から立ち上る煙の色です。もし、その日の投票で新しい教皇が選ばれなかった場合、投票用紙は黒い煙となって空に消えていきます。これは「まだ新しい教皇は決まっていません」というサインです。一方、必要な3分の2以上の票を獲得した枢機卿が現れ、その人物が教皇就任を受諾すると、今度は白い煙が立ち上ります。これは「新しい教皇が選ばれました!」という歓喜の知らせなのです。
この煙の色を出すために、投票用紙を燃やす際に特殊な薬品が混ぜられます。以前は、決まらなかった場合は湿らせた藁を混ぜて黒煙を出していましたが、ヨハネ・パウロ1世を選出した1978年8月の教皇選挙で黒とも白ともつかない灰色の煙が出て情報が混乱したことがあったため、現在では明確に色分けするために黒煙には過塩素酸カリウム、アントラセン、硫黄の化合物が、白煙には塩素酸カリウム、乳糖、松脂の混合物が使われるようになったそうです。さらに、白い煙が出た直後には、サン・ピエトロ大聖堂の鐘が鳴らされ、新教皇の誕生を世界に告げます。この鐘の音は、待ち望んだ信者たちにとって、何よりも心に響く知らせとなるでしょう。
投票の結果、必要な票数を得た枢機卿が現れると、礼拝堂内に枢機卿団秘書と教皇庁儀典長が呼び入れられます。首席枢機卿は候補者に対し、教皇位を受諾するかどうかを尋ねます。もし、候補者が受諾し、すでに司教であるなら、その時点で教皇位を受けることになります。もし司祭であるなら、首席枢機卿が司教叙階を行った上で、教皇位を受けます。信徒が選ばれた場合は、首席枢機卿が司祭叙階した後、さらに司教叙階を行うという процедура になります。そして、新しい教皇はあらかじめ用意されていた3つのサイズの白衣の中から自分の体に合うものを選んで身にまとい、枢機卿団が待機している礼拝堂に戻り、カメルレンゴから新しい「漁夫の指輪」を受け取り、祭壇近くに据えられた椅子について枢機卿団一人一人からの敬意の表明を受けます。次に助祭枢機卿の最年長者がサン・ピエトロ大聖堂の広場を見下ろすバルコニーに出て、ラテン語で新教皇の決定を発表します。そして新教皇がバルコニーに現れて、「ウルビ・エト・オルビ」(ローマと世界へ)ではじまる在位最初の祝福を与えるのです。かつて教皇は教皇冠を受けていましたが、ヨハネ・パウロ1世によってこの戴冠式は廃止されています。
この一連の流れは、まさにドラマそのものですよね。鍵のかかった部屋の中で繰り広げられる枢機卿たちの沈黙の戦い、そしてそれを象徴する煙の色。まるで、中世の時代から続く儀式が、現代においても変わらずに行われていることに、ロマンを感じずにはいられません。
最速は2日!?歴史を彩るコンクラーベの記憶
さて、この厳格なルールに則って行われるコンクラーベですが、過去にはどのようなドラマがあったのでしょうか?20世紀以降のコンクラーベを振り返ってみると、その期間は実に様々です。
なんと、最も早く新教皇が決まったのは、1939年のピオ12世のコンクラーベ で、わずか2日目の3回目の投票で決着しました。電光石火のスピードですね!当時のヨーロッパは第二次世界大戦前夜という緊迫した状況であり、早期の教皇選出が望まれていたのかもしれません。他にも、1978年のヨハネ・パウロ1世と、2005年のベネディクト16世、そして2013年のフランシスコ教皇も、いずれも2日目に新しい教皇が選ばれています。これらのケースでは、枢機卿団の意見が比較的まとまっていた、あるいは有力な候補者が早くから存在していたのかもしれません。
しかし、時には難航することもあります。20世紀以降で最も時間がかかったのは、1922年のピオ11世のコンクラーベ で、なんと5日目の14回目の投票でようやく決着しました。これだけ長引くと、枢機卿たちの精神的な疲労も相当なものだったでしょうね。背景には、第一次世界大戦後の教会の方向性を巡る意見の対立などがあったのかもしれません。
記憶に新しいところでは、2013年のコンクラーベは、前教皇ベネディクト16世が高齢を理由に生前退位したという異例のケースで行われました。この時も2日目の5回目の投票で、アルゼンチン出身のフランシスコ教皇が選ばれ、中南米出身者として初めての教皇誕生となりました。フランシスコ教皇は、貧困問題や環境問題、核兵器廃絶など、現代社会の様々な課題に積極的に取り組んできたことで知られています。彼の質素な暮らしぶりや気さくな人柄は、多くの人々に共感を呼びました。
そして、忘れてはならないのが、語源のところで触れた13世紀のヴィテルボのコンクラーベ です。2年9ヶ月という信じられないような期間、新しい教皇が決まらなかったこの出来事は、教皇選挙の歴史における特筆すべき出来事と言えるでしょう。市民たちが枢機卿たちを閉じ込め、食料を制限するという強硬手段に出た背景には、当時のヨーロッパの政治情勢、特に教皇派と皇帝派の激しい対立がありました。フランス人枢機卿とイタリア人枢機卿の間の対立は根深く、どちらの派閥も3分の2の票を獲得することができなかったのです。最終的に選ばれたグレゴリオ10世は、当時十字軍遠征に参加していた人物であり、両派閥にとって受け入れやすい妥協の産物だったと言えるかもしれません。彼は、この経験を踏まえ、教皇の死後20日以内に選挙手続きを開始することや、選挙中は外部との接触を断つことなど、後のコンクラーベの規則の基礎を作ったのです。まさに、「停滞から生まれる変化」を象徴する出来事だったと言えるでしょう。
過去のコンクラーベの歴史を振り返ると、それぞれの時代背景や教会の状況が色濃く反映されていることがわかります。短期間で決まることもあれば、数ヶ月、あるいは数年という d?ugotrwa?y な時間を要することもある。しかし、どんなに時間がかかろうとも、枢機卿たちが祈りと熟慮を重ね、新しい教皇を選び出すというプロセスは、カトリック教会にとって最も重要な儀式の一つであることに変わりありません。それは、単なる後継者選びではなく、教会の未来を託す、聖なる行為なのです。
コンクラーベ|鍵のかかった部屋の食卓と、気になるトイレ事情
さて、ここまでコンクラーベの語源、やり方、そして歴史を見てきましたが、皆さんが個人的にちょっと気になるであろう、コンクラーベ中の枢機卿たちの食事やトイレ事情について、僕なりに探ってみましょう!
まず食事についてですが、現代のコンクラーベでは、枢機卿たちはシスティーナ礼拝堂に隣接する聖マルタ館という宿泊施設に滞在します。
外部との接触が厳禁であるため、食事は外部から運び込まれるのではなく、内部のスタッフによって用意されると考えられます。
枢機卿団の食事の世話や清掃を行う係の者たちがおり、彼らもまた、選挙の進行や内容について重大な守秘義務を負っています。
過去の規則では、もし3日間選出されない場合は食事が減らされ、5日経っても決まらない場合はパンと水とぶどう酒だけにするという厳しい規定があったようです。
これは、早期に結論を出すことを促すための措置だったと考えられますが、現代の規則にこのような直接的な記述は見当たりません。
しかし、依然として外部との隔離状態が続く中で、豪華な食事が提供されるとは考えにくいでしょう。おそらく、枢機卿たちの健康に配慮しつつも、質素で規則正しい食事が提供されているのではないでしょうか。高齢の枢機卿も多いため、体調管理は非常に重要です。
そして、さらに気になるのがトイレ事情です。
直接的な記述はありませんでしたが、いくつかの状況から推測することができます。
まず、枢機卿たちは投票のためにシスティーナ礼拝堂へ移動しますが、それ以外の時間は聖マルタ館で過ごします。
聖マルタ館は宿泊施設ですから、当然ながら個室にトイレは備わっているでしょう。移動の際や、礼拝堂内での長時間の滞在に備えて、事前の準備は各自で行うと考えられます。
問題は、投票が行われるシスティーナ礼拝堂内です。
何時間も投票や祈りが続く中で、トイレに行きたくなるのは自然なことです。情報源には、病気によって体調が悪化した場合は退室できるという記述があります。
おそらく、体調不良という名目で、緊急時には礼拝堂から退出してトイレに行くことも可能なのではないでしょうか。ただし、その際も外部との接触は厳禁であり、付き添いの者がいるなどの特別な配慮がなされるはずです。
また、コンクラーベに参加する枢機卿だけでなく、スタッフ全員が選挙の進行や内容について重大な守秘義務を負っており、事前に宣誓を行っています。トイレの使用に関しても、情報漏洩のリスクがないよう、厳格なルールが定められていると考えるのが自然でしょう。例えば、特定の場所を使用する、使用中は監視をつける、などが考えられますが、詳細は明らかにされていません。
高齢の枢機卿も多く参加することから、健康面への配慮は当然払われていると考えられます。病気のために礼拝堂へ行けない者のための不在者投票システムも整備されており、体調が優れない枢機卿も選挙に参加できるようになっています。そういった意味でも、最低限の生理的な欲求を満たすための配慮はなされていると考えるのが自然でしょう。
鍵のかかった聖なる空間で、枢機卿たちは神の導きを求め、新しい教皇を選ぶという重大な使命を担っています。その間、食事や睡眠、そしてトイレといった日常的な行為さえも、外部の喧騒から隔絶された、特別な状況下で行われているのです。それは、私たちが想像する以上に、精神的にも肉体的にも過酷な状況なのかもしれません。
まとめ:コンクラーベと根比べの語源は?やり方・煙は?
■コンクラーベは単なる選挙ではない、魂のドラマだ!
今日のブログでは、コンクラーベの語源から始まり、その厳格なやり方、歴史的な出来事、そしてちょっと気になる食事やトイレ事情まで、深く掘り下げてみました。
「根比べ」という言葉が連想されるコンクラーベですが、その語源は「鍵がかけられた部屋」という、物理的な隔離状態を表していることがわかりました。しかし、長期間にわたる閉鎖された空間での意思決定という点では、あながち「根比べ」という言葉も的外れではないのかもしれません。
白煙と黒煙に象徴されるコンクラーベは、単なる教皇を選ぶ選挙というだけでなく、枢機卿たちの信仰、知恵、そして意地がぶつかり合う、まさに魂のドラマです。過去のコンクラーベの歴史を紐解けば、それぞれの時代背景の中で、いかに新しい教皇が選ばれてきたのか、その重みを感じることができます。
そして、私たちが普段何気なく行っている食事やトイレといった日常的な行為も、コンクラーベという特殊な状況下では、厳格なルールと秘密保持の中で行われていることを知ると、改めてその厳しさ、そして神聖な儀式に臨む枢機卿たちの覚悟が伝わってくるようです。
今回のブログを通して、少しでもコンクラーベという、普段なかなか触れることのない世界の奥深さを感じていただけたら嬉しいです。
それでは、また次回のブログでお会いしましょう!Ciao!