「アリアズナ」は主に「坂の上の雲」で広瀬武夫の恋人として知られるようになったロシア人女性。
日路線戦争で広瀬武夫は命を落としますが、「アリアズナ」はその後、どうなったんでしょうか?
アリアズナwiki|坂の上の雲の日路線戦争で広瀬武夫の恋人
広瀬武夫はロシア留学中、ロシア海軍関係者や貴族と親交を深めました。その中で、機雷専門家コワリスキー大佐の娘アリアズナと出会い、恋仲になったと言われています。
- 広瀬はアリアズナを真剣に結婚相手と考えており、ロシアから兄嫁に送った手紙にもそのことが書かれていたと言われています。
- 広瀬の兄夫婦は、アリアズナがロシアから来るかもしれないと思い、屋敷内に洋館を建てたという話もあります。
- しかし、日露戦争が始まる2年前の1902年に広瀬は帰国命令を受け、2人は別れることになりました。
- 広瀬は帰国直前にアリアズナに「永遠にいとおしい御身のうえに神の恩給のあらんことを」という最後の手紙を送りました。
- アリアズナは広瀬に「A」のイニシャルが刻まれた銀時計と、彼女の写真が入ったロケットを渡しました。
- 広瀬の戦死の知らせを聞いたアリアズナは、喪に服したと言われています。
2人の関係については、アリアズナが一方的に広瀬に好意を寄せており、広瀬は彼女を妹のように思っていたという説もあります。
- アリアズナが送った手紙の内容からは、彼女が広瀬にかなりの好意を持っていたことは確かです。
- しかし、広瀬はアリアズナの父親が機雷敷設の専門家であったため、彼女に近づきたかっただけという冷たい意見もあります。
アリアズナwiki|その後は?
残念ながら、アリアズナのその後についての明確な情報は得られていません。
ロシア革命後、コワリスキー一家がアメリカに渡ったらしいという記述があるものの、それ以降の消息は不明ですが、
- もしアリアズナがアメリカに亡命したのであれば、当時のアメリカの女性と同じように生きていったかもしれません。
- しかし、第一次世界大戦などを始めとする当時の混沌とした時代背景を考えると、「平凡」で「幸せ」な人生を送ることは難しかっただろうという意見もあります。
広瀬の死後、アリアズナは喪に服したと言われていますが、その後の結婚や生活については情報がありません。
アリアズナwiki|広瀬武夫の子孫は?
広瀬武夫とアリアズナの子孫について、広瀬武夫は生涯独身であり、子供はいませんでした。
なお、広瀬武夫には子供がいませんでしたが、兄弟はいました。兄の勝比古も海軍軍人であり、将官にまで昇進しています。広瀬武夫の血筋は、兄である勝比古の子孫に受け継がれていると考えられます。
アリアズナについては、彼女がその後結婚したかどうか、子供をもうけたかどうかについての情報はありません。
アリアズナはロシア革命後、家族と共にアメリカに渡ったとされていますが、その後の消息は不明です。
結論として、広瀬武夫の血筋は彼の兄の子孫に受け継がれ、アリアズナの子孫については情報がありません。**
広瀬武夫の生涯
広瀬武夫は、激動の幕末期の1868年(慶応4年)に、現在の大分県竹田市で生まれました。 彼の父、広瀬重武は勤王の志士でした。幼い頃に母を亡くし、祖母に育てられました。
幼少期から青年期
西南戦争で家を失い、一家で岐阜県高山市に移住。高山市では煥章小学校を卒業後、小学校教師となります。その後、東京の攻玉社を経て、海軍兵学校に進学。海軍兵学校時代には、講道館に通い柔道を習っていました。
海軍軍人としての経歴
海軍兵学校を卒業後、軍艦「比叡」に乗艦し、ハワイやグアムへの遠洋航海を経験。その後、砲術練習艦「海門」に乗艦し、静岡県清水港に寄港した際には、清水次郎長と出会い、男気を認められたという逸話も残っています。
1894年に日清戦争が勃発すると、輸送艦の艦長として参戦。陸軍の人員輸送や上陸援護の任務を遂行しますが、前線に出る機会はありませんでした。日清戦争後、ロシアとの戦争を予期し、ロシア語を独学で学び始めます。
ロシア留学とアリアズナとの出会い
1897年、広瀬はロシア語習得と情報収集のため、ロシアへ留学します。 サンクトペテルブルクでロシア語を学びながら、黒海やカスピ海方面を視察。ロシア駐在武官に任命され、4年5ヶ月間ロシアに滞在します。
ロシア滞在中、広瀬は社交界でロシア海軍関係者や貴族と交流を深めます。その中で、機雷専門家コワリスキー大佐の娘アリアズナと出会い、恋仲になります。アリアズナは広瀬に好意を抱き、広瀬も彼女との結婚を真剣に考えていました。広瀬の兄夫婦は、アリアズナが日本へ来ることを期待し、屋敷内に洋館を建てて待っていました。
しかし、日露戦争開戦2年前の1902年、広瀬は帰国命令を受けます。帰国直前にアリアズナに「永遠にいとおしい御身のうえに神の恩給のあらんことを」という最後の手紙を送り、アリアズナは「A」のイニシャルが刻まれた銀時計と彼女の写真入りのロケットを渡して別れを惜しみました。
日露戦争と旅順口閉塞作戦
1904年、日露戦争が勃発。広瀬は戦艦「朝日」の水雷長として従軍。ロシア太平洋艦隊の根拠地である旅順港を封鎖するため、旅順口閉塞作戦に参加します。
旅順口閉塞作戦は、古い貨物船を旅順港の入り口に沈めて封鎖するという、非常に危険な作戦でした。 広瀬は2度に渡りこの作戦に参加。2回目の作戦では、広瀬が指揮する貨物船「福井丸」が被弾し、沈没の危機に瀕します。 撤退中に部下の杉野孫七上等兵曹の姿が見えなくなったため、広瀬は彼を捜索するために沈みゆく「福井丸」へ3度も戻ります。 しかし、杉野を見つけることができず、救命ボートへ戻ろうとしたその時、ロシア軍の砲弾が直撃し、広瀬は戦死。 35歳という若さでした。
死後
広瀬の遺体はロシア軍によって発見され、丁重な葬儀が行われた後、陸上に埋葬されました。 広瀬の勇敢な行動と部下思いの姿は、日本国内で広く賞賛され、明治以降初の「軍神」として神格化されました。 出身地の大分県竹田市には、広瀬を祀る広瀬神社が建立されています。
人物像
広瀬は、勇敢で部下思いの軍人として知られていますが、一方で、詩人や柔道家としての顔も持っていました。
- 詩人として: 広瀬は海軍兵学校時代や航海訓練中に詩を書いており、イギリス視察の際には建造中の戦艦「朝日」の素晴らしさを詩で表現しています。 また、父や親族への手紙にも、自身の心情や出来事を詩や短歌で表現したため、彼の繊細な一面が伺えます。
- 柔道家として: 広瀬は攻玉社時代から講道館に通い、柔道の腕前を磨いていました。 講道館紅白試合では、一人で黒帯5人を抜き、6人目と引き分けるという実力を見せ、嘉納治五郎を驚かせたという逸話が残っています。 広瀬の死後、彼の柔道に対する功績を称え、段位は4段から6段に昇格され、講道館柔道殿堂入りを果たしました。
まとめ:アリアズナwiki|その後は?坂の上の雲の日路線戦争で広瀬武夫の恋人
アリアズナは、広瀬の死後、ロシア革命を逃れて家族と共にアメリカに渡ったようですが、その後の消息は不明です。
広瀬とアリアズナが愛し合っていたと信じたい気持ちはありますが、2人の関係やアリアズナのその後については謎が多く、本当のところは分かっていません。
広瀬とアリアズナのロマンスは、国境を越えた悲恋として、多くの人々の心を打ちました。
広瀬武夫は「軍神」として歴史に名を刻みましたが、彼の人生は戦争や英雄譚だけで語れるものではありません。
ロシアでの留学経験、アリアズナとの出会い、そして詩作や柔道に打ち込んだ日々… 広瀬武夫の生涯は、私たちに多くのことを考えさせる、奥深いものです。