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中岡慎太郎の肖像画|笑顔の写真の塗りつぶし理由はなぜ?

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中岡慎太郎の肖像画の写真について。

中岡慎太郎を撮影した写真の中には笑顔の写真も残されていますが、左側が黒く塗りつぶされている理由は?

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中岡慎太郎の肖像画|笑顔の写真の塗りつぶし理由はなぜ?

中岡慎太郎の笑顔の写真の左側の黒塗り部分は、塗りつぶされたのではなく、削られた部分だとみられます。

この写真は湿板写真で、黒い紙の上にガラスの原板を置くと画像が浮き出て見える仕組みです。黒塗り部分は原板に塗られていた薬剤が削り取られたため、画像が完全に消えて下の黒い紙が見えている状態です。

この部分に何が写っていたのかを調べることは不可能です。 中岡の膝の上に大柄の模様の布らしきものが写っていることから、隣に女性がいたのではないかという説もありますが、あくまでも想像の域を出ません。

伝承によると、中岡は写真を下宿先の菊屋峰吉に渡す際に、自ら小刀でこの部分を削り落としたと言われています。

中岡慎太郎は笑顔の写真以外にも、2枚の写真を撮っています。 1枚は思いつめたような表情の彼だけの肖像写真で、もう1枚は義兄の北川武平次と女性モデルらしい人物との3ショットです。 大坂屋という写真館ではセットを作ってモデルと一緒に写るサービスを行っていたそうです。

中岡慎太郎が微笑んでいる写真は3枚現存しており、全て大坂屋与兵衛という写真家が撮影したものです。 武士が笑っている写真は珍しく、伊藤博文が桂小五郎らと歯を見せて笑っている写真も存在します。 多くの武士の写真は遺影として撮影されるため、笑っていないものがほとんどです。

中岡慎太郎が笑顔で写っている理由は、隣に芸者などの女性がいたためだと一般的に言われています。 写真を見ると、中岡の右ひじや右膝あたりに見えるのは女性の着物のように見えます。

また、中岡慎太郎は3枚現存する武士が笑っている写真の全てで、写っている人物です。 彼の義兄も1枚の写真で微笑んでいます。 これは彼が京都の新撰組御用達の写真館で撮られた写真で、芸者との2ショット写真が人気だったようです。 当時の写真は20~30秒露光する必要があったため、動かないようにしていたと考えられています。

中岡慎太郎の功績

中岡慎太郎は、土佐藩出身の志士で、坂本龍馬と共に薩長同盟、薩土盟約の成立に尽力したことで知られています。薩長同盟は、当時対立していた薩摩藩と長州藩を結びつけ、倒幕運動を大きく前進させるきっかけとなりました。 中岡は、長州藩に身を寄せていた時期に薩摩藩との交渉にあたり、両藩の融和に尽力しました。

中岡は薩長同盟の成立において、坂本龍馬よりも大きな功績を残したという意見もあります。 中岡は月形洗蔵ら筑前勤王党と共に、いち早く薩長同盟の実現を目指して活動を開始しました。 一方、坂本龍馬が運動に加わったのは中岡よりも後のことでした。

中岡は、薩摩藩の西郷隆盛、長州藩の木戸孝允らを説得し、慶応2年(1866年)1月に薩長同盟の成立を実現させました。 しかし、中岡自身は第一次長州征討の戦後処理で下関から大宰府へ移された三条実美ら五卿の応接掛を務めていたため、同盟締結の場には出席できなかったようです。

薩長同盟の成立後、中岡は土佐藩の乾退助(板垣退助)を西郷隆盛に紹介し、薩摩藩と土佐藩による倒幕の密約である「薩土密約」を結びました。 この密約は、乾退助が土佐藩から兵を募ることを約束し、中岡が西郷の人質となることで成立しました。

中岡はまた、土佐藩の後藤象二郎と薩摩藩の小松帯刀、西郷隆盛らを京都の料亭に招き、土佐藩が大政奉還の建白書を提出する方針を示しました。薩摩藩がこれに同意したことで、「薩土盟約」が成立しました。

中岡は武力倒幕にも備えており、京都で陸援隊を組織し、隊長に就任しました。 陸援隊は、薩摩藩の兵学者・鈴木武五郎の指導のもと、洋式の銃隊訓練を行いました。

中岡は、大政奉還実現のため、岩倉具視との協力関係を深め、彼に坂本龍馬を引き合わせたり、太宰府の三条実美と和解・協力させたりするなど、周旋のために尽力しました。 岩倉具視は「誼を条公(三条実美)に通じ、交を西郷、木戸、広沢、黒田、品川、五子に結びたるは中岡、坂本、二子の恵みなり」と、中岡と坂本龍馬の功績を高く評価しています。

中岡は、倒幕運動の重要な役割を担いながらも、慶応3年(1867年)11月15日、京都の近江屋で坂本龍馬と共に暗殺されました。 享年30でした。 彼の死は、倒幕運動にとって大きな損失となりました。

中岡慎太郎の生い立ち

中岡慎太郎は、天保9年4月13日(1838年5月6日)、土佐国安芸郡北川郷柏木村(現在の高知県安芸郡北川村柏木)で、大庄屋を務める中岡小伝次と後妻ウシの長男として生まれました。 本名は道正で、通称ははじめ福太郎(福五郎とも)、光次、のちに慎太郎と名乗りました。

中岡家は名字帯刀を許された裕福な大庄屋であり、慎太郎は25石1斗3升6勺を給されていました。 彼の家は代々庄屋を務めており、土佐藩の制度で転勤があったため、慎太郎が生まれた北川村(柏木村)が中岡家の発祥の地ではありません。 慎太郎の祖父・要七の代から北川郷14ヶ村の大庄屋を務めており、それ以前の先祖代々の墓は高知県内の各所に点在していましたが、現在は北川村に移されています。

慎太郎は幼少時代から学問に励み、安政元年(1854年)には間崎哲馬に師事して経史を学びました。 翌年には武市瑞山(半平太)の道場に入門し、剣術を習っています。

安政4年(1857年)、19歳で野友村庄屋の利岡彦次郎の長女・兼と結婚しました。 文久元年(1861年)には武市瑞山が結成した土佐勤王党に加盟し、本格的に志士活動を開始します。

慎太郎は文久2年(1862年)に、郷士・足軽・庄屋を中心とする「五十人組」の伍長として江戸へ行き、長州藩の久坂玄瑞と共に水戸を訪れ、松代藩の佐久間象山にも会っています。

その後京都へ行き、藩主・山内容堂の上洛に合わせて「御旅中御雇徒目付」に任命され、他藩との応接を担いましたが、間もなく容堂に従って帰国し、職を解かれました。

慎太郎は故郷の人々の記憶によると、「ひとときも無駄という時間のない人」で、「秋の刈入れの時、百姓たちが稲の取り入れに追われているのを見ると、家に帰り着くなり稲ざすを持って手伝いにくる」ような、勤勉で思いやり深い人物として知られていました。

中岡慎太郎と坂本龍馬

中岡慎太郎と坂本龍馬は、共に幕末の土佐藩出身の志士であり、薩長同盟の成立に尽力した人物として知られています。しかし、その功績や性格、歴史における評価はいくつかの点で異なっています。

功績における比較

  • 薩長同盟への関与:
    • 中岡慎太郎は、長州藩に亡命していた時期から薩長同盟の実現に向けて活動していました。 彼は月形洗蔵ら筑前勤王党の活動を引き継ぎ、薩摩藩との交渉を重ねていました。
    • 坂本龍馬は、中岡よりも遅れて薩長同盟の運動に参加しましたが、海運結社という独自のネットワークを持っていたことが強みでした。 特に、慶応2年1月の京都会談で薩摩藩から妥協を引き出したことは、大きな政治的功績として評価されています。
    • 薩長同盟の成立には、月形洗蔵、中岡慎太郎、坂本龍馬の三者それぞれの貢献があり、誰一人欠けても実現は難しかったと考えられています。
  • その他の活動:
    • 中岡慎太郎は、土佐藩の同志たちに向けて政治論文『時勢論』を執筆し、藩の方針や日本の将来について提言を行いました。 また、陸援隊を結成し、隊長として武力討幕の準備を進めました。
    • 坂本龍馬は、海援隊を結成し、貿易や航運を通じて経済的な活動を行いながら、政治的な活動にも関与しました。 彼の活動は、現代において企業家的な側面が注目されています。

性格における比較

  • 中岡慎太郎:
    • 堅実な秀才、政治家タイプであり、大久保利通や木戸孝允と似たタイプの人物と評されています。
    • 真面目な性格で、議論好きだったという証言が残っています。
    • 維新後の土佐藩の代表となった板垣退助は軍人タイプであったため、中岡が生きていれば、大久保のように明治政府で活躍していた可能性も指摘されています。
  • 坂本龍馬:
    • 天才肌の人物で、西郷隆盛や高杉晋作と似たタイプと評されています。
    • ドラマチックな人生を送ったことや、その性格から、現代において高い人気を誇っています。

歴史における評価

  • 中岡慎太郎:
    • 薩長同盟の成立に大きく貢献した人物ですが、坂本龍馬と比べて知名度は低いと言われています。
    • 司馬遼太郎の小説『竜馬がゆく』の影響もあり、龍馬暗殺事件の際に「おまけ」扱いされることも少なくありません。
    • しかし、歴史研究者の間では、薩長同盟の実現において中岡の功績を高く評価する意見も多いです。
  • 坂本龍馬:
    • 小説やドラマの影響で、幕末のヒーローとして非常に高い人気を誇っています。
    • 特に、昭憲皇太后の「葉山のお夢」の逸話が広まったことで、国民的な英雄として認識されるようになりました。
    • しかし、「葉山のお夢」については、司馬遼太郎の小説での脚色が大きいことや、土佐閥による宣伝工作という説もあるため、注意が必要です。

その他

  • 中岡慎太郎は、笑顔で写っている写真が現存している点が特徴的です。 当時の武士は写真撮影の際に笑わないことが一般的であったため、これは非常に珍しい例です。
  • 中岡慎太郎の笑顔の写真の左側が黒塗りになっているのは、隣に写っていた人物が削り取られたためです。 この人物の正体は不明ですが、女性であったという説が有力です。
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